「状況依存」ということ

以前は(かれこれ20年くらい前は)新聞の書評を読むのが好きだった。日曜日になると各紙を求めて、娘と近所のJR駅まで散歩するのが習慣になっていた。最近は面白い!と思う本があまりない。本の責任ではなく、自分がそれを欲してしないからだろう。

今日の書評は養老先生。『<わたし>は脳に操られているのか』(エリエザー・スタンバーグ著)。本のことは置いておく。引っかかったのは次の一節。

「私はこの本の書評をするか否か、いささか迷った。一つは主題の自由意志である。この言葉は日本ではほとんど使われない。使われない概念に関する論考を紹介する必要があるのか。…」

「キリスト教では「ヒトは理性と自由意志と良心を持つ」と規定する。とくに米国の文化では主体の存在と、それが持つ自由意志による選択が、人生に対する具体的な考え方の根源になっている。」

それに続くこの一節。

「日本の文化では、明らかに別の考え方をする。主体ではなく、状況依存であろう。開戦の詔勅(「しょうちょく」と読む、いずれも当用漢字で天子の命令の意)であっても、「不幸にして至る」という。選択というより、「ほかにどうしようもない」というのがいちばん強い。状況依存なら、そうなるはずである。」

何が言いたいかというと、日本人の考え方の特徴が「状況依存」という理解は面白いなあということ。

ちょっと関係ないかも知れないけど、昨今の豊洲市場の関係者の説明を聞いていて一番感じるのは、主語が抜けている、ということ。

「○○は△△の常識である」     それって誰が言ったの?
「○○には△△しておく必要がある」 って誰が言ったの?

さらに第三者会議の設置自体が、私は主語になりたくない、という表れのように感じられる。ここで、
「第三者」って断るところが既に怪しいと考えるのが正解。結論なんぞ人選でどうにでもなるやん。
言いたいことは第三者会議に言ってもらう。でも不首尾の時は責任持ちません。

いずれも行政の本質がよく表れていて勉強になる。誰も主語にはならない(責任を取りたがらない)。でも、お金(権力)は持っている。威張る時は威張る。突然主語が出てくる。逃げる時は逃げる。急に主語が曖昧になる。最終的には収まるところに収まる(良いところに天下りした〜い)。毎度、役人とゼネコンの独壇場だす。

別頁に続く。




久しぶりの追加頁。話は急に別なところに飛びます。

たまたま『東北を歩く』(結城登美雄著)をパラパラと読んでいた。この本は震災前の東北の小さな村を訪ねたルポを集めた本。いずれの村も過疎化・高齢化が進んだ集落だが、昔ながらの生活を維持している人たちがいる。著者はこの本で、その現代的な意味を探っているように思われる。

例えば檜枝岐村。福島の山奥の村は気候条件が厳しく、東北でも唯一、米一粒も実らぬ村だという。平成の大合併にも参加せず、独自路線を続けている。土地が狭い山間の集落で、墓地と畑が混在して生活しているという。そんな厳しい集落にも人々は太古の昔から住み続けている理由は?

人間の生き方として、自由意志を尊重し、世の中を如何様にでも変えていく、という方向性がある一方で、状況に依存し、周りの環境を受け入れて、それに合わせて生きていく、という方向性がある。生物としては生存戦略の違いだろうけど、その結果として残る景観は大きく違ったものになるだろう、と想像する。
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桃姫の飼い主

Author:桃姫の飼い主
南極大陸を横断したグリーンランドハスキー犬『キンタ』を曾祖父に持つ由緒正しい駄犬『桃姫』とその飼い主が綴る、北の空の観天”呑気”

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宣言:「私は原子力を利用しない世界を求めます」

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